2024年3月18日月曜日

『記憶を語りつぐ阪神・淡路大震災』のDVDが関西学院大学総合政策学部より刊行されました


*youtubeでも公開されています。https://youtu.be/jYqy-XZbIzc



映像解説

1. 背景

2020年は、阪神・淡路大震災の発災から25年目に当たった。大震災から四半世紀が経過しようとしていた被災地では、震災後に生まれた、いわゆる震災後世代が年を追って増加していた。そして、大震災を直接経験した人々がもつ大震災の記憶をいかに継承していくかが、重要な社会的課題としてたち現れていた。

その課題に強い関心と問題意識をもって、被災地に所在する関西学院大学総合政策学部の教員たちが震災後世代における大震災の記憶継承についての意識と態度を明らかにするための調査研究に着手することになった。1

2. 制作に至る経緯

調査研究では、2019年から2020年にわたって震災後世代の大学生を対象に、調査票によるアンケート調査が実施され、震災後世代の震災記憶継承意識の特徴や傾向が明らかになった2。まず、第 1の特徴として、多くの震災後世代が、震災の記憶継承に効果的な媒体として、被災者による語りかけ、学校教育による継承、そして、ビデオや映画などの映像メディアを選んだ。さらに、つぎの特徴の 1 つとして、継承すべき記憶について「選択的」傾向がみられた。中でも、被災者個人の感情や思いの継承より被災や復興に関する客観的データの継承がより重要視される傾向がみられた。

この調査結果から得られた知見にもとづき、さらに研究が進められた。2021年度には、阪神・淡路大震災の記憶継承を目的とする、複数の実験的な映像コンテンツが、被災地である神戸市長田区のコミュニティ放送局、エフエムわいわい(FMYY)の協力によって制作され、同じく震災 後世代を対象にした視聴反応調査が実施された3。具体的には、被災者が震災経験を語るモノローグに特化した映像として「人間が語り継ぐ阪神・淡路大震災」、そして、震災の被災状況や復興過程を客観的に示す表やグラフなどのデータに特化した映像として「データで語り継ぐ阪神・淡路大震災」の 2 種類の映像が制作され、それらを視聴した震災後世代に対して評価尺度と自由記述による視聴反応調査が行われた。

この視聴反応調査の結果は、興味深いものであった。データ中心の映像「データで語り継ぐ阪 神・淡路大震災」については、オーディエンスに 対して、大震災の全体像を把握するための知識や情報をもたらしたが、同時に、震災に対する恐怖や不安感情を一部にもたらした。他方、被災者のモノローグで構成された映像「人間が語り継ぐ阪神・淡路大震災」は、被災者の震災時の経験や心情への理解と共感がより強く醸成された。しかし、個人的なエピソードが中心で、震災の全体像が把握しにくいなどの難点も指摘された。4

3. 制作のねらい

この調査結果の知見から、これら異なった 2 つのタイプの映像を統合することによって、それぞれの長所と短所を補い合う、大震災の記憶をより効果的に継承するための映像コンテンツの制作が、次の目標として視野に入ることとなった。そして、これらの知見にもとづき、すでに制作された 2 種類の動画コンテンツを編集・統合し、 1 つの動画コンテンツが制作されることとなった。『記 憶を語り継ぐ阪神・淡路大震災』は、その試みの1つである。そのねらいは、人間である被災者の経験と記憶をとおして語る大震災の姿と、客観的なデータによって描かれる大震災の姿を統合し、それぞれがたがいに補い合うことによって、大震災を複眼的な視点で想起することを試みることである。

4. 手法と映像構成

被災者と言っても、その存在は多様である。「人間が語り継ぐ阪神・淡路大震災」では、男女 2名の被災経験者の震災についての語りが収録された。したがって、この『記憶を語り継ぐ阪神・ 淡路大震災』でも、被災者の語りに関しては、この 2 人の語りを中心に構成されている。

この 2人の男女のうち、男性は被災地である長田区で生まれ、そこで生活を営んできた人物であり、他方、女性は日系ペルー人で長田区に家族とともに移住し、就労していた人物である。

『記憶を語り継ぐ阪神・淡路大震災』では、さらに文化的背景の異なる人々、被差別地域で暮らす人々、心身に障がいをもつ人々、子ども、女性、 高齢者など、 8人の証言があらたに加えられた。これら証言映像の収録には、総合政策学部学生たちの熱心な協力があったことを明記しておきたい。

これらの証言を加えることで、被災者が多様な存在であり、大震災はそれぞれにとって異なった様相を示し、被害のあり方も復興への取り組みも異なっていることを想像、理解できるよう努めた。

ところで、「データで語り継ぐ阪神・淡路大震災」では、神戸新聞社、神戸市、政府、博物館、 研究機関、学会、大学などが公開している大震災に関する各種データをもとに、長田区に限らず、広く被災地全域に目を配り、表やグラフ、地図を用いて、客観的な表現を試みた。『記憶を語り継ぐ阪神・淡路大震災』でも、これらの情報を引き続き活用した。画像データの使用を許してくださった神戸新聞社には、心から感謝を申し上げたい。 さらに、公開されている映像資料、FMYY所蔵のビデオ映像、個人所蔵の写真・ビデオ映像を加え、また、あらたにドローンで空撮された映像を加えて、全体を構成した。そして、最終的に動画コンテンツ全体としての視聴時間は、約60分となった。

5. 制作体制・スタッフ

5-1. 研究

関西学院大学総合政策学部共同研究班:

山中速人、照本清峰、津田睦美、奈良雅美、金千秋

5-2. 出演

インタビュー出演:森﨑清登、大城ロクサナ

学生制作番組/証言インタビュー出演:為岡務、安本久美子、藤本幸二、觜本郁、角岡伸彦、

石倉泰三、吉田めぐみ、李玉順

5-3. 制作

インタビュー撮影:神吉良輔(ふとっちょの木) ドローン撮影:辻野賢登 ナレーション:森﨑清登、はまのかずみ 図像デザイン/作成:宗田宜士

 学生番組制作:

(関西学院大学総合政策学部津田睦美ゼミ)

 岡本貴登、近藤理菜、宗田凜花、中嶋一翔、早川葵、古橋玲也、三砂安純、山中碧生

(関西学院大学総合政策学部山中速人ゼミ)

江頭舞、岡田愛未、日下まりあ、小松将大、 白髪里佳、瀬戸山周、中越陽香、永沼美菜、 中城健太、辻野賢登、藤田広希、星円、 宮本隼輔、芳岡知昇、山崎聡一郎、吉山菜々子 

脚本・構成:山中速人 

制作・編集:金千秋(エフエムわいわい)

6. 使用データ・映像音響資料・文献等の出典

参考文献・データ:

・ 震災発『阪神・淡路大震災の記憶』(Web Page) ・ 神戸新聞NEXT「データでみる阪神・淡路大震災(Web Page)

・ 神戸市「震災資料室」(Web Page)

・ 神戸市消防局「阪神・淡路大震災」(Web Page) 

・ 内閣府「防災情報のページ」(Web Page)

・ 柏原士郎、森田孝夫、上野淳『阪神・淡路大震災における避難所の研究』大阪大学出版局、

1998年

・ 日本火災学会『1995年 兵庫県南部地震における火災に関する調査報告書』1996年

・ 兵庫県『阪神・淡路大震災の死者にかかる調査について』2005年12月22日記者発表資料

・ 舞田敏彦「災害での死者数は、なぜ女性の方が 多いのか『」ニューズウィーク日本版』2019年10月23日

・ 人と防災未来センター『資料室ニュース』30号、2006年11月15日

・ 都市防災研究所『阪神・淡路大地震における在日外国人被災状況調査』1995年

・ 外国人地震情報センター『阪神大震災と外国人「多文化共生社会」の現状と可能性』1996年 ・(社)兵庫部落解放研究所『記録 阪神・淡路大震災と被差別部落』解放出版社、1996年

・ 部落解放同盟中央本部・(社)部落解放研究所 『阪神・淡路大震災と被差別部落:被害の状況と復興への課題』1995年

・ 日本経済新聞「復興の街が問う未来 阪神大震災から25年」2020年 1 月17日(WebPage) 

写真:

神戸市 阪神・淡路大震災「1.17の記録」(Web Page)より 使用した写真コード(登場順)f196, f202, f208, b043, b046, a031, f005, f188, f179, g191, f126, g064

画像データ提供:神戸新聞社、神戸市、震災写真オープンデータ・ サイト・阪神・淡路大震災「 1 .17の記録」 映像データ提供:松崎太亮、チョン ミンラク、(特定非営利活動法人)エフエムわいわい 

BGM:魔王魂、株式会社VSQ


脚注

1 調査研究には、2019〜2020年度総合政策学部共同研究「阪神・淡路大震災の記憶継承に関する大震災後世代の意識調査」の認定をうけ補助金が交付された。2019年度の研究班は、山中速人(代表)、照本清峰、奈良雅美、金千秋(研究協力者)によって構成され、2020年度より津田睦美が参加した。

2 山中速人、照本清峰、奈良雅美、金千秋「阪神・淡路大震災の記憶継承に関する震災後世代の意識と態度〜調査報告(基礎編)『総合政策研 究/Journal of policy studies』61号、pp.47-69(2020-09-20) 山中速人、照本清峰、津田睦美、奈良雅美、金千秋「阪神・淡路大震災の記憶継承に関する震災後世代の意識と態度〜2019年度調査の分析」『総合政策研究/Journal of policy studies』64号、pp.73-94(2022-03-20)

3 2020年度関西学院大学共同研究公募研究A「阪神・淡路大震災の記憶継承にかかる震災後世代への意識調査と国際研究交流」の補助金の一部によって映像制作が行われ、エフエムわいわいによって配信された。

4 山中速人 , 照本清峰 , 津田睦美 , 奈良雅美 , 金千秋「阪神・淡路大震災の記憶継承のための実験番組の制作と震災後世代による番組評価 : 「人間が語り継ぐ阪神・淡路大震災」「データで語り継ぐ阪神・淡路大震災」に関する視聴反応調査報告」『総合政策研究/Journal of policy studies』65号、pp.1-59(2022-09-20)

2023年8月23日水曜日

誰がキャプテン・クックの首に鈴をつけるのか。

  出版予定のオセアニア文化に関する事典で、編集者から頼まれたいくつかの項目の1つに「ジェームズ・クック」があった。あの18世紀の世界周航、太平洋探検で有名なキャプテン・クックだ。最初、送られてきた編集者からのメールを読んで「なんで私なの?」というのが素朴な感想だった。キャプテン・クックといえば、欧米では、偉人に列する存在だ。もっと、適当な書き手がいるだろうに。

ジェームズ・クック

 ただ、クックの航海については、近年、彼に「発見」された太平洋の島々や沿岸地域の先住民たちから厳しい批判的評価が盛んに行われ、本来は彼の偉業を顕彰するために建てられた銅像が倒されたり、ペンキを掛けられたりするようになった。

 学術研究の世界でも、クックの航海に対して、従来の西洋中心主義的な視点が批判されるようになり、論争が巻き起こっている。その筆頭は、イギリスの旧植民地スリランカ出身の文化人類学者のガナナート・オベーセーカラが1992年に発表した『(邦題)キャプテン・クックの列聖』(中村忠男訳、みすず書房)だ。彼は、ハワイ人たちがクックを神と見違えたという従来の定説を西洋中心主義として批判し、クックらが先住民との接触に際して示した暴力性を暴いた。

 オベーセーカラの問題の著作が出た1992年の同じ年に、たまたまハワイ観光の歴史について書いた拙著の中で、クックの先住民に対する姿勢について、ずいぶん批判的に書いたことがあった。クックは、第三回の航海の途中、ハワイに立ち寄った際、住民と衝突し落命したのだが、住民と紛争になったとき、沖に泊めていたボートまで泳いで逃げたら助かったのに、なんと偉大な航海者であるクックは、泳げなかったのだ。そのことも、ちょっと揶揄した。この年になって思うと、若気の至りというべきだったろうか。

「クックの死」の図版

 その本の出版に際して、太平洋の先住民文化について多大な研究業績のある文化人類学者のMY先生に事前に原稿を読んでもらった。MY先生は、アメリカ政府奨学生としてハワイ大学で学んだ日本人留学生の先輩で、そのよしみで無理を聞いてもらった。ひょっとして、MY先生が事典の執筆者選考を担当していて、キャプテン・クックの項目が私に回ってきたのかも…とあれこれ想像してしまった。

 新しく出る事典だから、従来通りじゃ面白くない。そこで、クックの「偉業」を「批判的」に論じる作業、いわば「猫の首に鈴をつける」のを、曲がりなりにクック批判に先鞭をつけることになった私が担当することになったのかもしれない。若気の至りの後始末は、なんとも骨が折れる。

 


2023年8月14日月曜日

マウイ島山火事とラハイナ焼失〜貿易風とハワイ諸島の関係

 ハワイ諸島に暮らすと、つねに東北東の風が安定して吹いていることに気づきます。貿易風です。

図1 貿易風の流れとハワイ

貿易風とは、緯度30度付近にある亜熱帯高気圧帯から赤道に向かって吹く、ほぼ定常的な偏東風のことで、図1が示すように、北半球の北緯20度付近にあるハワイ諸島には、この貿易風が年間を通じて、つねに吹いています。(貿易風とハワイ諸島の歴史的関係については、拙著『ハワイ』(岩波新書)に書いたので読んでいただければうれしいです。)

この東北東(ここでは、簡単に東といいます)の風が、海中の火山活動によって生まれたハワイの島々の気候に大きな影響を与えています。図2が示すように、貿易風の風上にあたる島の東側斜面は湿潤に、風下にあたる島の西側は乾燥します。

図2
東側が湿潤で涼しく、西側が乾燥して高温という条件は、歴史的にハワイの産業や社会構造にも影響をおよぼしてきました。湿潤で涼しく、生活にとって好条件の東側には、裕福な住宅街などが発展し、暑くて乾燥している西側には、サトウキビ・プランテーションが開発され、そこで働く農業労働者や移民たち、先住民ハワイ人たちの居住地が形成されました。

この構造がはっきりと見える島は、カウアイ島です。図3の衛星写真が示すように、カウアイ島は1つの火山(カワイキニ山)を中心にもつほぼ円形の島で、貿易風の影響がはっきりと現れます。図4は、カウアイ島の降水量を示していますが、貿易風の風上(東)は湿潤で涼しく、風下(西側)は乾燥して高温とはっきりと分かれます。

図3 カウアイ島衛星写真

図4 カウアイ島降水量


湿潤で涼しい東側は、緑豊かですが、他方、高温で乾燥した西側は、赤茶けた大地にサトウキビ耕地が広がります。



つぎに、カウアイ島の民族別人口比率をこれに重ねてみましょう。図5は、カウアイ島の地域別の白人系住民比率を示しています。白人人口が、湿潤で涼しい島の東北部に偏っていることがわかります。


図5 カウアイ島白人住民の地域別比率

一方、図6は、地域別のアジア系住民比率を示しています。高温で乾燥した島の南西部に偏っていることがわかります。

図6 カウアイ島アジア系住民の地域別比率


19世紀以来、島の南西部に形成されたプランテーションでの労働を担ったアジア系移民とその子孫たちは、今でも島の南西部に集住しています。それに対し、歴史的に社会の上層を占めてきた白人層は、湿潤で涼しい島の東北部に集まっています。

もちろん、20世紀中盤以降、島の産業構造がプランテーション農業から観光業へと大きく変化したため、このような構造は、今日、崩れつつあります。しかし、それでも、貿易風が作り出した基本的な構造は根強く残っているのです。

さて、マウイ島をみてみましょう。図7は、マウイ島の衛星からの写真で、図8は、島の年間降水量(赤:少↔青:多)を示しています。これをみると、山の東側が湿潤で、山の西側が乾燥していることがわかります。ラハイナは、西マウイ島の中央にあるプウククイ山の西側に位置し、乾燥しているのです。
反対に、東マウイの中央にそびえるハレアカラ山の東側斜面は湿潤で熱帯植物が生い茂り、森林保全区に指定されています。


図7 マウイ島の衛星写真


図8 マウイ島の降水量


今回の森林火災の発生箇所をしめす図9をみれば、それらが山の西側に位置し、乾燥地帯であることが分かるでしょう。

図9 今回の火災発生箇所

ラハイナのハワイ語の意味は、が太陽を意味し、haināが残酷を意味します。「残酷な太陽」つまり、強烈な太陽がつねに大地を焦がしている土地だということです。
このような自然条件を抱えたラハイナの町が、地球温暖化の中で山火事の犠牲となりました。一人でも多くの命が助かることをせつに祈ります。

そして、19世紀に捕鯨基地として繁栄し、また、一時期、ハワイ王朝の首都でもあったラハイナの歴史的街並みが焼失したことは、本当にくやしくて残念です。しかし、第二次大戦で壊滅したヨーロッパの歴史的街並みが再建されたように、歴史あるラハイナの街が美しく再建されることを願ってやみません。




2023年8月6日日曜日

2023年8月6日 ヒロシマ原爆忌によせて

  1997年に平岡敬広島市長(当時)からいただいた思い出深い原爆ドームのタペストリー。このタペストリーは、原爆ドームが、1996年に世界遺産登録されたのを記念して作られたもの。それを平岡市長から直接いただいた。

 80年代、東西冷戦の最中、戦術核兵器の配備をめぐって、ドイツを中心に中部ヨーロッパで反核運動が広がった。ところが、ドイツ語の原爆資料がないことを知り、急いで、原爆資料のドイツ語訳を友人のオーストリア人留学生と手掛けることになった。
 それがきっかけとなり、自身の海外留学を機会に「被爆者が描いた原爆の絵」というスライド映像番組を外国語に翻訳する活動をはじめた。各国からやってきた留学生仲間にわずかな謝礼で翻訳をしてもらうのだ。
 その活動を知って、大阪の職業女性団体(BPW)が資金を提供してくださり、ヒロシマ資料を海外に知らせる会が発足、数年かけて12ヵ国語への翻訳を完成させた。翻訳されたスライド番組は各国に送られた。

1997年、今度は、そのスライド番組を東京経済大学コミュニケーション学部の学生ボランティアたちが、当時、まだ最新のメディアだったホームページに加工する作業(HTML版の制作)に取り組み、完成させたデータを女性団体といっしょに広島市平和資料館に寄贈した。

 写真は、市長や取材のテレビクルーが、当時、まだ珍しかったホームページ化された資料を閲覧しているところ。このホームページは、それから何年間も平和資料館のサイトで公開され、海外から多くの人々のアクセスを受けたが、素朴な作りのHPは、その後、ウエッブ技術の進化の中で時代的役割を終えた。

 この市民が描いた原爆の絵は、もとはNHK広島が被爆市民に呼びかけ、数多くの作品が寄せられたものだ。収集に尽力した広島NHKの元スタッフの家族の方が、外国語訳を届けたニュースを聴いて「夫の志を引き継いでくれてうれしい」と手紙をくださった。

 一つ一つの市民の活動はささやかだけれど、その志がリレーされることによって、着実に成果を作り出せる。そのことを実感する経験だった。

2023年3月8日水曜日

災害と戦争における「忘却と想起」〜記憶研究の視点から〜

 災害記憶の世代を超えた継承について調査研究を続けてきて思うのは、戦争の記憶継承との類似性である。辛い記憶を忘れて未来をみつめて復興をめざそうという「未来志向」か、過去の重荷を想起しつづけ現在の戒めにしようという「過去の保持」かの葛藤は、災害でも戦争でもよく似ている。

われわれの研究班が実施した震災後世代に対する調査でも、男性は忘却志向なのに対し、女性は辛い記憶の保持に積極的だという結果がでている。ただ、災害の記憶の想起については、政府も世論もメディアも一般論では前向きだ。しかし、いったん想起すべき記憶の内容に踏み込むと、防災に役立つ記憶は優先しても、犠牲者の悲惨なエピソードについては及び腰であるなど、単純にすべての記憶の継承に受容的ではない。

災害でもこのようであるから、戦争の記憶についてはなおさらだろう。たとえば、今、日韓で確執が続いている徴用工問題の経過をみると、忘れたい側と想起を続ける側との溝の深さを痛感せざるをえない。

記憶研究で著名なドイツの研究者、アライダ・アスマンは、論文「トラウマ的な過去と付き合うための4つのモデル」(アライダ・アスマン、安川晴基訳『想起の文化:忘却から対話へ』岩波書店、2019年に収録)の中で、両者を対立させるだけでは、問題の理解や解決にはならないと書いている。さらに、アスマンは、これまで人間がこの問題に対処してきたやり方には、4つのモデルがあったと指摘する。

1.対話的に忘れること。2.決して忘れないために想起すること。3.克服するために想起すること。4.対話的に想起すること。

そして、アスマンはこう付け加えている。
「忘れること(山中注:1の「対話的に忘れること」を選択)が真価を発揮するのは、とりわけ、対称的に暴力が行使されたあとか、あるいは、新たな同盟関係が築かれねばならない特別な政治的状況下だ。しかし、極度の暴力が振るわれた非対称的な関係が問題となっているときには忘れることは失敗する。」

彼女の議論に従えば、韓国にとって1の「対話的に忘れる」モデルの選択がまがりなりにも可能であるのは、朝鮮戦争で暴力を行使しあった南北間かもしれない。しかし、韓日のような植民地統治の被害者と加害者の間の非対称的な関係では失敗することになるだろう。

ところで、最近、日本では「対中脅威を前に日韓がともに備えるべきだ」と一部のメディアや政治家が主張しているが、これなどは、「同盟関係が築かれねばならない特別な政治的状況」に当たると考える人もいるかもしれない。実際、韓国の保守系政権も、同じ発想で「対話的に忘れる」モデルに傾きつつあるようにみえる。しかし、そんなことは可能だろうか?

アスマンはこうも書いている。「歴史のトラウマは、共通の未来を築くための基礎になりうる。この想起は、被害者にとっても加害者にとっても、彼らの集合的な自己像の不可欠の部分になっているので、…過去の保持のこの形式は、未来永劫続く」と。
被害者にとってアイデンティティの一部となっている記憶は、たとえ目先の共通利益があっても、忘却することは結局できないのではないだろうか。まして、過去のある時点で結ばれた条約を盾にして、「解決済み」だと主張しても、それが、トラウマとなった記憶を忘却させるわけではない。

ひるがえって、災害記憶の継承についても、それはいえるだろう。防災関係者が「防災に役立つ記憶の継承が必要」だといっても、なにが防災に役立つかは、人びと、とりわけ被災者の経験や立場で異なるだろう。まして、被災のトラウマを抱えて生きる被災者にとっては、役立つ記憶だけを継承するという姿勢それ自体が、新たな苦痛となるかもしれない。
そして、そのようなやり方は、結局失敗するように思えてならない。

2023年2月9日木曜日

トルコ・マルマラ地震の記憶を語り継ぐ努力は果たされたか?

 1999年に発災したトルコ・マルマラ地震の被災地で、人びとの間に地震の記憶がどう継承されているかを知りたいと思い、2018年に現地調査を行った。被災者たちの間で、地震の記憶は生々しく生きていた。しかし、地元自治体は、災害の記憶継承に努力しているようすはなかった。震源地の街は、きれいに修復され、痕跡はなく、震災を伝えるモニュメントもなかった。

震源地の街 ギョルジュク
しかし、私たちが尋ねると、出会った被災者たちの口からはほとばしるように震災の記憶が溢れ出した。むしろ被災者たちは、記憶を語りたがっていた。そして、震災の記憶を忘却しようとするかのような社会の動きを嘆き、このままでは、また同じような災害と被害が、繰り返されかねないと訴えた。

震源地での聞き取り
今回の2023年トルコ・シリア地震の被害の深刻さと被災者の辛苦を思う。そして、マルマラ地震の悲劇がまた繰り返されたことに忸怩たる思いを禁じえない。

マルマラ地震の被災地でのフィールドワークの報告に詳しく書いた。ご一読いただきたい。

https://kwansei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=27913&item_no=1&page_id=30&block_id=114

2022年10月19日水曜日

関西学院大学での最終講義を公開しました。


  大学をリタイアして半年が過ぎました。コロナ禍で多くの授業がオンラインとなり、最終講義もオンラインそれもオンデマンド講義番組での開催となりました。

振り返れば、コロナ禍のこの2年間、ほぼすべての講義をオンラインで実施しました。苦痛だった?いえいえ。実は、関学での20年間で、どちらかといえば楽しかった2年でした。文部省放送教育開発センター時代に、リモート学習の開発研究をしていたこともあり、オンデマンド講義番組、それも自分の科目の講義番組を作るのは、たいへん楽しかったのです。自前のスタジオも自宅に構築して、番組制作に励みました。コロナ禍は辛かったけれど、災い転じてなんとやらです。勢いに乗じて、他大学の講義番組の制作を手伝ったりしました。そして、「最終講義」もオンデマンド講義番組で行いました。

さて、最後の教授会で、来年度から全科目を教室対面式にもどすと告げられた。とっさに「ここで辞められてよかった」と思いました。面白い2年間を感謝しています。

山中速人「最終講義・映像フィールドワークの実践と展望」





2020年12月17日木曜日

2020年の活動を振り返って

2020年は阪神淡路大震災の25年にあたり、被災記憶の継承の問題について、震災後世代の意識調査を行い、その報告と2018年に行ったトルコ・マルマラ地震被災者の聞き取り調査の報告とをあわせて2月にエルジエス大学(トルコ・カイセリ)で行われた国際学会で発表しました。

詳細は、以下のページで御覧ください。

http://kg-sps.jp/blogs/yamanaka/2020/01/15/165/

その後、コロナ禍が世界を覆い、深刻な事態になっています。研究はひきつづき行われ、震災後世代が、コロナ禍を経験することで、大震災の記憶継承に関する意識にどのような変化を生じさせたかを明らかにしたいと考えています。




2015年9月8日火曜日

アメリカ日系人の戦時抑留から考える〜安全保障か憲法かという問について

 カウアイ島ワイメアのお寺に滞在しながら、地元日系二世のライフヒストリーをまとめる作業にかかっている。
 日系二世の生活史の特異点は、なんといっても親の国が敵国となった戦時下の経験だ。アメリカ西海岸では、市民権をもつ二世を含む日本人がすべて収容所に抑留されたが、ハワイでは、一世の指導層の一部に限られた。だから、カウアイ島の二世たちは、たとえば自動車の使用制限や夜間外出の禁止など生活上の厳しい制限はあったが、トラウマ的な抑留経験はない。これがいかに彼らの人生観を肯定的なものにしているか計り知れない。

(ところで、最近、オアフ島ホノウリウリにあった抑留キャンプの発掘が行われ、その存在が注目をあつめた。オバマ大統領は同地区を国立公園に指定した。)
オアフ島ホノウリウリ収容所
 日系人に対する、本土とハワイのこの差がなぜ生じたのかを考えるとき、現在の日本の問題を考える重要な視点が含まれることに気づく。
 米本土における日系人抑留は軍事上の必要のためとされた。しかし、実は、司法省は市民権保持者の抑留は憲法違反であるとの懸念を示し、軍も軍事上の現実的必要性はないと認識していた。考えてみれば、軍事上の必要性ならハワイの方がはるかに高かったはずだ。しかし、ハワイでは全員の抑留は避けられた。人口の3割を占める日系人を抑留することの経済的影響の大きさと全員抑留の無益さに対する理性的判断が先行したからだ。
 他方、本土では、政策合理性がないのに、全日系人に対する抑留は実行された。この背後には、「日系人がサボタージュやスパイ活動をするのを防止せよ」と叫ぶ地元政治家たちの存在があった。彼らの意図は、日本人に対する軍事的脅威を煽り、人々の人種差別的な恐怖感情に訴えて手っ取り早く集票しようというところにあった。大統領ローズベルトもそれに同調した。その結果、安全保障を錦の御旗にした彼らの感情政治が、憲法の原則を突き崩してしまった。
 民主主義国家では、安全保障を押し立てた感情政治が横行するとき、憲法順守の理性は後退しがちであることを、日系人抑留の歴史は示している。
 ここから学ぶことは大きい。今日の日本でも、嫌韓を叫ぶ排外感情と中国の軍事的脅威で手っ取り早く集票する政治家たちが目立つ。「憲法守って、国滅びる」などと、大声で叫びまわる政治家もいる。安倍政権自体がその神輿の上に乗っており、有権者の恐怖感情に訴えて反憲法的政策を強行しようとしている。しかし、目先の感情政治による誤った政策決定がどんな悲劇を生むか、日系人抑留の歴史から学ぶべきだ。
二世兵士の帰郷
 歴史を見れば、ハワイの白人指導者たちは、本土とは逆に、人種間の融和を訴え、この非抑留政策を正当化した。本心は経済上の要請だったが、それは言わず、アメリカ憲法の理想主義を建前とした。
「どのような恐ろしい攻撃を受けても、アメリカ流のやり方で対処することを忘れてはならない。…いまこそコスモポリタンな人間として、住民同士が従来からの信頼を忘れていないことを証明してみせる時がきたのだ。」(ハワイ軍司令官のラジオ演説より)
 現実主義に裏打ちされた理想主義があることをこの演説は示している。その結果として、ハワイでは日系二世たちの社会統合は順調に進み、彼らの存在が、戦後のハワイ社会発展の重要な基盤となり、また、日米友好の架け橋の役割を担った。
 当たり前かもしれないが、感情政治を排して、政策決定における理性的判断を重視することがいかに大切か、あらためて噛みしめたいと思う。

2015年7月28日火曜日

夏休み特番シリーズ5回連続「自衛隊は戦場に行くのか〜憲法学からみた安保関連法案」をyoutubeで公開

FMYYで放送予定の夏休み特番シリーズ5回連続「自衛隊は戦場に行くのか〜憲法学からみた安保関連法案」の第1回「今、なぜ安保法案なのか、その合法性 は?」の映像版です。長岡徹先生(関学法学部教授・憲法学)の緊急特別セミナーをお送りします。今、安保法案なのか。集団的自衛権の合法性は担保されているのか。著名な憲法学者がその問題点を明快に論じます。ぜひアクセスしてみてください。講師:長岡徹先生(関西学院大学法学部教授)聞き手­:金千秋、山中速人、足立唯夏、企画制作:関学山中速人研究室「耳をすましてリスニン­グトゥゲザー!」夏の特番シリース(FMYY放送中)。

https://www.youtube.com/watch?v=7CzLCty25Is

2014年1月15日水曜日

1月15日は、マーチン・ルーサー・キングJr.牧師の記念日

今日、1月15日は、人種差別に反対し、公民権法の成立に命を賭したマーチン・ルーサー・キング Jr牧師の記念日です。人種差別は過去のアメリカの話ではなくて、「在日」外国人に対する憎悪をむき出しにしたヘイトスポーチが拡大しつつある今の日本の 重大課題です。1・17を前にして、この日の重さについてもしっかりと受け止めたいと思います。
 ワシントン大行進で行われたキング牧師の歴史的スピーチは、Youtubeで視聴できます。
http://www.youtube.com/watch?v=HRIF4_WzU1w
 その日本語訳は、アメリカ大使館の以下のサイトで読むことが出来ます。
http://aboutusa.japan.usembassy.gov/j/jusaj-majordocs-king.html

2012年1月21日土曜日

17年目の1.17 追悼イベントのラジオ放送で中継実習をしました




17年目の阪神淡路大震災の祈念追悼イベントがJR新長田駅前広場で開催されました。地元のコミュニティラジオ局、FMわぃわぃが会場にサテライトスタジオを設置し、終日、中継をしました。その中継放送に、山中ゼミの学生たちも、実習生として参加しました。試験期間中の大変な時期でしたが、時間をやりくりして参加しました。
ラジオ放送だけでなく、山中ゼミとFMYYのわぃわぃの共同で、今年は、USTREAMでも、映像中継を行いました。写真は、LIVE SHELLを使って映像中継するスタッフです。

2011年6月25日土曜日

領家穣先生への追悼文


2011年5月14日に逝去された領家穣先生のお別れの会で、以下のような追悼文を読ませていただきました。

領家先生
 今日は、珍しくお話しにならず、静かに聞いてくださっておられますね。
 先生のことばの中で、私が一番印象に残っていることばは、「教えないのが教育や」ということばです。
 私は、学生時代、先生にとって、一番できの悪い学生のひとりだったと思います。
それで、大学院進学に先立って、大学院で先生の教えを受けたいと申しでたとき、言下に、「やめとけ」と言われました。
「成績が悪いからですか」とおどおどと聞き返すと、「いや、そうやないんや。教えを受けようというのが、そもそも間違ごうとるんや。それだけの世界や」
 先生は私の入学に最後まで反対されたそうです。
 しかし、さいわい、ほかの先生方が
「まあ、領家先生、いれたりなはれや。可哀想やないですか」
 と説得してくださったお陰で、入学できたのですが。
 その後、領家先生の座右の銘の1つが、「教えないのが教育」というものであることを知ったのです。
 研究者の自立。
 そして、真理の前では、教授も学生も対等だという、先生独特のリベラリズムを、先生らしい、ちょっとぶっきらぼうな言い回しで表現されたことばだと思います。
 しかし、授業が始まると、この「ことば」の真の意味が痛いほど分かるようになりました。
 何を話しておられるか、ほとんどわからないのです。そもそも教えようという気がないんですから。講義は、もう難解な独り語りなのです。
 そのうえ、講義の場は、教室ではなくて、多くの場合、居酒屋でした。
 そこでは、学生が分かろうが分かるまいが、お構いなしに、先生の頭脳の中に浮かんでくる言説が、ほとばしるように口から流れ出てくる。それを必死で聴き取っていくのが、私たち学生の仕事でした。
 その結果、多くの同級生は、理解できない自分の能力に自信喪失、ショックで脱落していきました。私は、脱落する前に、先生のところは修士課程だけにして、アメリカの大学に脱出しましたので、なんとか今も、この業界でやっております。
 ただ、その後も、先生のもとに通い、先生の話を聞き続けるという荒行だけは、続けてきました。そうです。なんとか先生の難解なモノローグを解き明かしてやりたいという密かな野望をいだいていたからです。
 そして、その後、ひとつの方法を、なんとか開発することができました。
 その方法については、最近出版した本の中で、先生のお人柄とともに、紹介しました。ちょっと読みます。

 わたしが大学院時代に教えていただいていた領家教授は、理論社会学が専門でしたが、部落差別や人権問題にもすぐれた研究をつづけてこられた研究者でもありました。しかし、教授は、また、めったに論文を書かないことで有名でした。その上、お酒が大好きで、教室での授業が終わったあと、いつも大阪の十三にある万長という居酒屋に学生たちを伴い、お酒を飲みながら授業の延長をされるのでした。お酒が入ることもあって、教授のお話は、どんどん話題は変わるし、あちこち飛ぶし、先生には当然でも、学生には論理に飛躍があって、ときどき何を話しているかわからなくなってしまいました。
 さて、教授が退職されるとき、わたしたち弟子たちの間で、この分かりにくいけれども、たいへん意義深い酒場での授業を一度しっかりと記録しておこうという思いが強くなりました。そこで、教授の酒場授業をシステマティックに記録する方法を工夫してみようということになりました。思案を重ねた挙げ句、最後にたどり着いたのが次のような方法でした。
 それは、デジタル映像とデータベースを組み合わせたマルチメディアだったのです。これをコンピュータで操作できるCD-ROMの形で制作することに決めました。
 まず、教授に一切の拘束をはずして自由に語っていただくことにしました。
 教授はお酒が大好きでしたから、弟子たちが教授の自宅に酒の肴をそれぞれ持ち寄って集まり、まず駆けつけ一杯とばかりに、一升瓶から並々とコップにお酒を注いで、それを飲み干すところから、ビデオカメラを回し始め、先生のモノローグをすべて録画したのです。
 (以下、技術的な話なので中略。)
 こうして、このビデオテープをコンピュータに取り込んで、数十個の動画ファイルに加工し、また、肉声をすべて文字化し、それらを組み合わせたマルチメディアのコンテンツが完成したのです。
 これを使えば、先生の「語り」を先生の身振りや口調も再現しながら、自由に並び替えたり、検索したりして、縦横無尽に、とことん聞き込んでいくことができます。こうして、ようやく先生の思想と言説の姿がおぼろげながら浮かび上がってきたのです。

 このCD−ROMは、「デジタル言説〜ある社会学者の思想」というタイトルで出版もされましたし、学会で発表もされました。
 先生の講義がマルチメディアになったという噂をきいて、たくさんの研究者が発表会場に駆けつけ、学会史上初の立ち見まででたのです。
「こんな便利なものがあったら、領家先生の話を聞きたいばかりに、肝臓を悪くすることはなかったのに」と悔しがる研究者もいました。
 その後も、何度か先生のご自宅に集まって、お酒を飲みながら先生のお話をビデオで記録しつづけました。そのビデオテープがすでに30巻以上になります。
 残念ながら、この大量のテープはまだ手が付けられていません。この映像を、現在のもっと進んだメディアテクノロジーを使って、公開したいという願いは、まだ、叶っていません。
 だから、まだまだするべきことは多いのです。「教えないのが教育」だという先生の教えをもっとも真っ当にうけつぐためにも、多くの仕事が残されたままです。
 先生は、お酒の入った竹筒とともに、今、天国に旅立たれようとしていますが、私たちのために、たくさんの宿題を残してくださったのだと思います。
今、先生はめずらしく沈黙しておられますが、きっと心の中で、「まあ、これだけしゃべっておいてやったら、しばらくもつやろ。ま、そういう世界や」と、つぶやかれていると思います。
 これから、残された私たち弟子たちは、記録された映像を手がかりにして、先生の言説と理論の解読を続けていきます。先生、ですから、まだしばらく私たちと係わってやってください。
 そして、そのかたわらで、やすらかに酩酊をつづけてください。また、お目に掛かるまで。
 合掌
山中速人

2010年10月30日土曜日

イスタンブール大学公開セミナーで研究発表

今年2月にイスタンブールを訪ねた。そのとき、イスタンブール大学の民俗学研究センターの研究者と面識ができた。それから8ヶ月、ひょうたんから駒のような話で、イスタンブールを再訪することになった。同研究センターが主催するセミナーで講演をするためである。
今年は、トルコでは日本との友好120周年を記念して、日本との友好イベントで賑わっている。また、イスタンブールは、2010年度のヨーロッパ文化首都に選ばれたことも手伝って、イスタンブールの都市文化にかかわるさまざまな催し物が行われている。
私の講演も、同センターが主催するセミナーの一環として、「日本のメディアにおけるトルコイメージ」について研究発表するものだった。
当 初は、セミナーの1つの発表演目に過ぎなかったのに、トルコの人びとの千客万来文化のお陰で、スポンサー付きの公開イベントに格上げされ、政府観光局が後 援して、トルコの民俗楽器の演奏や日本の茶道のイグジビションや琴の演奏も伴うひどく大がかりなものになってしまった。
びっくりしている私に、イスタンブールに長期在留している日本人のみなさんから、「それがトルコ流なんですよ。こうなったら、船に乗るしかありません。がんばってください」と引導をわたされ、約1時間の研究発表を引き受けることになった。
テー マは、日本の新聞とマンガに現れたトルコのイメージについての内容分析である。日本の新聞メディアについて、その歴史を簡単に紹介しながら、この25年間 のトルコ報道の傾向を総括し、また、同時に、トルコとトルコ人を扱ったマンガやイラストガイドブックを対象にして、日本人とトルコ人の異文化接触やカル チャーショックのエピソードを紹介した。
会場は、結構満員で、テレビ局のカメラもいくつか並んでいて、あとで、インタビューをされた。
当初は英語での報告を予定していたが、現地の大学院でトルコ古典文学を学んでいる優秀な大学院生やトルコ人の日本語通訳の力を借りることができ、日本語=トルコ語通訳を介して、発表をすることができた。
一般市民の聴講もあると聞かされていたので、できるだけ専門的な用語は避け、笑いを誘うようなエピソードも取り上げて、内容を構成した。それが功を奏したのか、通訳を交えての発表だったけれど、期待通りのところで笑い声が上がり、首尾良く講演を終えることが出来た。
我ながら、こういう場でも笑いをとることを考えるというのは、関西人だなあとしみじみ自覚した次第である。
発 表の最後に、この秋に訪ねた串本のトルコ記念館を紹介した。今から120年前、日本を表敬訪問したオスマン朝の軍艦・エルトゥールル号が串本沖で遭難し、 乗組員を串本大島地区の漁民たちが果敢に救助した出来事がきっかけになり、その後も、慰霊祭を欠かさず現在に至っている。その事跡を記念して70年代に建 設されたトルコ記念館とその活動をイスタンブールの人びとに紹介したかった。
串本のトルコ記念館を訪問するに当たって、イスタンブールでの発表の件を関係者にお話ししたところ、写真の提供やインタビューなど、快く協力をしてくださった。その厚意にもぜひ応えたかった。
研究発表の要旨は、こちらをご覧頂くこととして、まずは、イスタンブール大学での研究発表が、つつがなく成功裏に終わったことを記したい。
関係者の方々に心から感謝を申し上げたい。

2010年7月19日月曜日

夏休み特別番組のお知らせ〜朗読ドラマによる連続大学講座「メディアってなに?」


 FMわぃわぃで、放送中の関西学院大学山中速人研究室提供の実験ラジオ番組は、7月20日から夏休み特別番組「朗読ドラマによる連続大学講座・メディアってなに?」をお送りします。放送時間は、毎週火曜日、午後1時から1時20分。10回シリーズで、9月21日までお送りいたします。
 原作は、拙著『娘と話す・メディアってなに?』(現代企画室)で、ハワイ生まれのナニちゃん(ハワイ語で美しいという意味)が、日本の大学に入学し、コミュニティラジオ局のキャスターをつとめながら、メディアについて考えるという内容です。
 ドラマには、声の出演として、神戸三国志ギャラリーの内屋敷保さん啓明学園高校の放送部のみなさん、ほかの協力をいただきました。
 1930年代のナチズムによる大衆操作に使われたメディアの問題を皮切りに、メディアの影響力をめぐる現象や理論、思想家のメディア論などを歴史的に整理しながら、ドラマの形式を借りて広く取り上げています。
 メディア論に関心のあるみなさんの聴取をお待ちしています。
ポッドキャストのアクセスは
http://tasei-bunka.seesaa.net/article/157032262.html

2010年5月9日日曜日

5月11日から鉄人と三国志の街・長田街歩きラジオ番組が始まります


神戸のJR新長田駅近くの公園に実物大の鉄人28号が立っている。街歩きのラジオ番組で、8日土曜日の午後、そこを訪ねた。

この番組は、FMわぃわぃで5月11日(火)から10回のシリーズで、鉄人と三国志の街・長田をテーマに学生レポーターたちがくまなく歩き回って、その魅力や街作りへの提言を放送する予定。
8日の訪問は、その第1回の収録のためだった。

原作者の横山光輝が住んだ長田の街を記念して、地元の有志たちが数年来こつこつと寄付金を集めて実現した、実物大の鉄人28号。18メートルある そうだ。鉄人プロジェクトのひとり、近畿タクシーの森崎社長が熱っぽく語っていた夢がついに実った。友人として、心からおめでとう。

実現までには、多くの苦労があった。長田は、川崎重工など、名だたる鉄鋼企業の街なのに、これらの大企業は、鉄人プロジェクトには冷ややかで、 協力してくれなかったらしい。かわって大阪の中小企業が引き受けてくれたとのこと。日本の大企業のチャレンジ精神のなさを象徴するようなエピソード。

ところが、実現してみると、たいへんな人気。平日でも人だかりが絶えない。
里帰りして鉄人を見に来た子連れの若いお母さん。車いすの夫を連れて、毎日、通っているという初老の夫婦。中年おじさんたちは、熱っぽく鉄人の魅力を語る。テレビアニメの主題歌まで歌いだしそうだった。

「アトムと鉄人のどこが違うかって? アトムはどこまでいっても正義の味方だけど、鉄人はリモコンを悪人に奪われれば悪の手先になってしまう。科学技術の本質を的確に示しているのが、鉄人なのだ。」
とは、わが友人の評論家の言。なるほどね。

鉄人でもりあがる長田の街。震災以来、久しぶりに活気があふれていた。それが嬉しかった。

2010年3月19日金曜日

卒業おめでとうございます


卒業おめでとうございます。
 この3月18日、山中速人ゼミは、19名の卒業生を送り出しました。
 進学、就職と進路はそれぞれ違っても、明日から、新しい人生のステージに入るみなさんにエールを送ります。
 学校を離れ、社会に本格的に参入していく。これからいろいろなことがあるでしょうが、自分に自信をもって、進んでください。
 わたしの教育方針は、「教えないのが教育だ」というものでした。これからも、その言葉を覚えていてください。あなたにすり寄ってきて「あなたのためだから」というような人間を警戒しなさい。あなたが知りたいというまで教えてくれない人。尋ねたことだけ、ほんのすこし教えてくれる人。こういう人を大事にしなさい。
 みなさんがゼミの課題であるラジオ番組制作で学んだことの核心は、人のことばに耳を傾けること。それだけです。それも、しゃべりたい人の言葉にではなく、沈黙しがちな人の言葉に耳を傾けることです。その経験と学びを大切にしてください。
 私がみなさんに伝えたいことは、それだけです。
 最後に、あらためて卒業おめでとう。
 

2010年3月3日水曜日

春から復帰します

長いようであっと言うもの自由研究期間も、3月で終わります。
4月から、また授業に復帰します。

2009年12月5日土曜日

故・吉田民人先生のご冥福を心からお祈りします。(個人的追悼文)

2009年12月5日
吉田民人先生が、ご逝去されました。心から哀悼の誠を捧げます。

 12月に入って、吉田民人先生がご逝去されたという知らせをご家族からいただいた。今年の10月27日のことだったと、その知らせにはあった。社会学を志したことのある者なら、その功績を知らない者はいないだろう。しかし、それだけではなく、多くの研究者と交わり、導かれた、優れた指導者であられた。社会学の一番隅っこで、小さく店開きをしている私のような者にさえ、分け隔てなくお声を掛けてくださった。ここに先生の思い出話を書き留めることで、先生への追悼としたい。

 それは、8年ほど昔の話にさかのぼる。当時、私は中央大学に勤めていた。大学紛争の後遺症で、学生の反乱を恐れて、やたらと閑散とした多摩丘陵の真ん中、狸が出そうな離れ里にキャンパスがあった。今から思えば、バンカラ気質のいい大学だった。しかし、その中央という名前からは想像もつかないような辺鄙な超郊外型のキャンパスのせいで、教職員、そして、もちろん学生たちは、たいそう苦労を強いられていた。とにかく、朝9時から始まる第1時限の授業に出ようと思うと、家をとてつもない時間に出なければならないからである。
 若い学生は、いいとしよう。それが人生である。私も、自慢じゃないが、ハワイ大学に留学していた時は、早朝、7時からの授業に通ったものである。
しかし、齢50歳に近づきつつあった当時の私にとって、辺鄙な多摩丘陵で朝9時から始まる授業に間に合うように出校するのは、大変な苦労であった。そのような教員たちの苦労を察していたのだろうか、それとも組合の団交の成果なのだろうか、中央大学には、教員用の宿泊施設が、多摩キャンパス開校と同時に、併設されていたのであった。ちょうどビジネスホテルのワンフロアを移築したような施設で、これが、年月を経て、ひどく老朽化していたのであったが、しかし、優れていることには、朝1時限の授業を担当する教員は、宿泊料金が免除されていたことだった。ただし、お金を払っても、一泊500円だったから、文句の付けようのない低料金の施設だった。
 私は、当時、事情があって長距離通勤をしていたから、この宿泊施設のヘビーユーザーであった。毎週、火曜日に四谷の大学院で授業を担当し、その夜は、この宿泊施設に泊まり、水曜日と木曜日の二日を多摩で過ごすと、木曜日の夜には、遠路自宅に帰る。そのような生活を支えてくれたのが、この宿泊施設であった。

 前置きが長くなり過ぎた。
 この宿泊施設の常連の一人が、吉田民人先生だった。先生も、茨城からの遠距離通勤者だった。
 この宿泊施設の宿泊者は、朝、スエヒロ亭が経営する教職員向けのレストランで朝食を食べるのが常であった。けっして美味い朝食ではなかったけれど、他に食べる場所もなく、このレストランに集まることになる。
 当初は、同じ学科の教員であっても、格が違うから、ただそのお姿を遠巻きに見ているだけであったが、そんなに広くもない同じレストランのテーブルで朝食を採っていると自然と挨拶や会話を交わすようになり、気がついてみると、水曜の朝は、吉田先生と一緒に朝食をいただかない週はないということになっていた。
 思い起こせば、かつて、私がまだ大学院生だった頃、関西社会学会の懇親会の席で、吉田先生がスピーチに立たれたことがあった。それは、もう大向こうを唸らす声量、内容とも他者の追随を許さないようなスピーチであった。私たち駆け出しの院生は、そんなスピーチをされる先生の姿をはるか下の方から見上げていた。
 そんな伝説の吉田民人先生が、目の前におられて、それも、同じ朝食を食べておられる。そう考えるだけで、私は、感慨を抑えきれなかった。

 先生のお話は、多岐に及んだ。専門職としての哲学者の将来の姿についての考察、社会科学としての情報学の構想などなど。社会学にとどまらず研究という行為それ自体に関する先生の思いや思索が話題の中心だったが、時には脱線して、旧制高校時代に、初めて悪所といわれるところを覗きに行ったときの心臓が口から飛び出すような体験の思い出などもお話になった。
 お話が上手で、人を飽きさせない、すばらしい先生だった。先生が退職される最後の学期も終わりに近づき、施設での宿泊も残り少なくなった頃、いつものように朝食のテーブルを囲んで、先生のお話を聴いていた。先生が、私に向かって、こんなことを言われた。

「君はフィールドワークをやるんだったね。僕は理論が中心だったから、ついぞ本格的なフィールドワークをやらなかった。だから、フィールドワークをやる君がときどきまぶしく見えるときがあるよ。」

 先生からそう言われて、うれしさと恥ずかしさが交錯する気分だった。吉田先生からまぶしいと思われるようなフィールドワークを自分はしてきたのだろうかと恥ずかしかったのである。その言葉が吉田先生からいただいた心に残る言葉の最後となった。先生が退職され、私が関西に異動し、以来、先生と言葉を交わす機会はなかった。

 気がつけば、私も、研究人生の後半にさしかかっている。吉田先生からいただいた言葉に恥じないよう、いつも心を戒めながら、自分のフィールドワークに精進していきたいと、あらためて思うのである。

先生のご冥福をあらためてお祈りいたします。
合掌

2009年11月27日金曜日

10年度ゼミ選考の内定状況です

山中速人ゼミ(メディア工房)の内定状況です。
現在、内定を差し上げた学生さんの総数は、12名です。
一人辞退者がでました。
以上、ご報告いたします。
事務室から提示された、10年度のゼミの受け入れ可能幅は、12〜15名です。
この書き込みの更新は、12月3日に行いました。