2009年12月5日土曜日

故・吉田民人先生のご冥福を心からお祈りします。(個人的追悼文)

2009年12月5日
吉田民人先生が、ご逝去されました。心から哀悼の誠を捧げます。

 12月に入って、吉田民人先生がご逝去されたという知らせをご家族からいただいた。今年の10月27日のことだったと、その知らせにはあった。社会学を志したことのある者なら、その功績を知らない者はいないだろう。しかし、それだけではなく、多くの研究者と交わり、導かれた、優れた指導者であられた。社会学の一番隅っこで、小さく店開きをしている私のような者にさえ、分け隔てなくお声を掛けてくださった。ここに先生の思い出話を書き留めることで、先生への追悼としたい。

 それは、8年ほど昔の話にさかのぼる。当時、私は中央大学に勤めていた。大学紛争の後遺症で、学生の反乱を恐れて、やたらと閑散とした多摩丘陵の真ん中、狸が出そうな離れ里にキャンパスがあった。今から思えば、バンカラ気質のいい大学だった。しかし、その中央という名前からは想像もつかないような辺鄙な超郊外型のキャンパスのせいで、教職員、そして、もちろん学生たちは、たいそう苦労を強いられていた。とにかく、朝9時から始まる第1時限の授業に出ようと思うと、家をとてつもない時間に出なければならないからである。
 若い学生は、いいとしよう。それが人生である。私も、自慢じゃないが、ハワイ大学に留学していた時は、早朝、7時からの授業に通ったものである。
しかし、齢50歳に近づきつつあった当時の私にとって、辺鄙な多摩丘陵で朝9時から始まる授業に間に合うように出校するのは、大変な苦労であった。そのような教員たちの苦労を察していたのだろうか、それとも組合の団交の成果なのだろうか、中央大学には、教員用の宿泊施設が、多摩キャンパス開校と同時に、併設されていたのであった。ちょうどビジネスホテルのワンフロアを移築したような施設で、これが、年月を経て、ひどく老朽化していたのであったが、しかし、優れていることには、朝1時限の授業を担当する教員は、宿泊料金が免除されていたことだった。ただし、お金を払っても、一泊500円だったから、文句の付けようのない低料金の施設だった。
 私は、当時、事情があって長距離通勤をしていたから、この宿泊施設のヘビーユーザーであった。毎週、火曜日に四谷の大学院で授業を担当し、その夜は、この宿泊施設に泊まり、水曜日と木曜日の二日を多摩で過ごすと、木曜日の夜には、遠路自宅に帰る。そのような生活を支えてくれたのが、この宿泊施設であった。

 前置きが長くなり過ぎた。
 この宿泊施設の常連の一人が、吉田民人先生だった。先生も、茨城からの遠距離通勤者だった。
 この宿泊施設の宿泊者は、朝、スエヒロ亭が経営する教職員向けのレストランで朝食を食べるのが常であった。けっして美味い朝食ではなかったけれど、他に食べる場所もなく、このレストランに集まることになる。
 当初は、同じ学科の教員であっても、格が違うから、ただそのお姿を遠巻きに見ているだけであったが、そんなに広くもない同じレストランのテーブルで朝食を採っていると自然と挨拶や会話を交わすようになり、気がついてみると、水曜の朝は、吉田先生と一緒に朝食をいただかない週はないということになっていた。
 思い起こせば、かつて、私がまだ大学院生だった頃、関西社会学会の懇親会の席で、吉田先生がスピーチに立たれたことがあった。それは、もう大向こうを唸らす声量、内容とも他者の追随を許さないようなスピーチであった。私たち駆け出しの院生は、そんなスピーチをされる先生の姿をはるか下の方から見上げていた。
 そんな伝説の吉田民人先生が、目の前におられて、それも、同じ朝食を食べておられる。そう考えるだけで、私は、感慨を抑えきれなかった。

 先生のお話は、多岐に及んだ。専門職としての哲学者の将来の姿についての考察、社会科学としての情報学の構想などなど。社会学にとどまらず研究という行為それ自体に関する先生の思いや思索が話題の中心だったが、時には脱線して、旧制高校時代に、初めて悪所といわれるところを覗きに行ったときの心臓が口から飛び出すような体験の思い出などもお話になった。
 お話が上手で、人を飽きさせない、すばらしい先生だった。先生が退職される最後の学期も終わりに近づき、施設での宿泊も残り少なくなった頃、いつものように朝食のテーブルを囲んで、先生のお話を聴いていた。先生が、私に向かって、こんなことを言われた。

「君はフィールドワークをやるんだったね。僕は理論が中心だったから、ついぞ本格的なフィールドワークをやらなかった。だから、フィールドワークをやる君がときどきまぶしく見えるときがあるよ。」

 先生からそう言われて、うれしさと恥ずかしさが交錯する気分だった。吉田先生からまぶしいと思われるようなフィールドワークを自分はしてきたのだろうかと恥ずかしかったのである。その言葉が吉田先生からいただいた心に残る言葉の最後となった。先生が退職され、私が関西に異動し、以来、先生と言葉を交わす機会はなかった。

 気がつけば、私も、研究人生の後半にさしかかっている。吉田先生からいただいた言葉に恥じないよう、いつも心を戒めながら、自分のフィールドワークに精進していきたいと、あらためて思うのである。

先生のご冥福をあらためてお祈りいたします。
合掌