2024年3月18日月曜日

『記憶を語りつぐ阪神・淡路大震災』のDVDが関西学院大学総合政策学部より刊行されました


*youtubeでも公開されています。https://youtu.be/jYqy-XZbIzc


映像解説

1. 背景

2020年は、阪神・淡路大震災の発災から25年目に当たった。大震災から四半世紀が経過しようとしていた被災地では、震災後に生まれた、いわゆる震災後世代が年を追って増加していた。そして、大震災を直接経験した人々がもつ大震災の記憶をいかに継承していくかが、重要な社会的課題としてたち現れていた。

その課題に強い関心と問題意識をもって、被災地に所在する関西学院大学総合政策学部の教員たちが震災後世代における大震災の記憶継承についての意識と態度を明らかにするための調査研究に着手することになった。1

2. 制作に至る経緯

調査研究では、2019年から2020年にわたって震災後世代の大学生を対象に、調査票によるアンケート調査が実施され、震災後世代の震災記憶継承意識の特徴や傾向が明らかになった2。まず、第 1の特徴として、多くの震災後世代が、震災の記憶継承に効果的な媒体として、被災者による語りかけ、学校教育による継承、そして、ビデオや映画などの映像メディアを選んだ。さらに、つぎの特徴の 1 つとして、継承すべき記憶について「選択的」傾向がみられた。中でも、被災者個人の感情や思いの継承より被災や復興に関する客観的データの継承がより重要視される傾向がみられた。

この調査結果から得られた知見にもとづき、さらに研究が進められた。2021年度には、阪神・淡路大震災の記憶継承を目的とする、複数の実験的な映像コンテンツが、被災地である神戸市長田区のコミュニティ放送局、エフエムわいわい(FMYY)の協力によって制作され、同じく震災 後世代を対象にした視聴反応調査が実施された3。具体的には、被災者が震災経験を語るモノローグに特化した映像として「人間が語り継ぐ阪神・淡路大震災」、そして、震災の被災状況や復興過程を客観的に示す表やグラフなどのデータに特化した映像として「データで語り継ぐ阪神・淡路大震災」の 2 種類の映像が制作され、それらを視聴した震災後世代に対して評価尺度と自由記述による視聴反応調査が行われた。

この視聴反応調査の結果は、興味深いものであった。データ中心の映像「データで語り継ぐ阪 神・淡路大震災」については、オーディエンスに 対して、大震災の全体像を把握するための知識や情報をもたらしたが、同時に、震災に対する恐怖や不安感情を一部にもたらした。他方、被災者のモノローグで構成された映像「人間が語り継ぐ阪神・淡路大震災」は、被災者の震災時の経験や心情への理解と共感がより強く醸成された。しかし、個人的なエピソードが中心で、震災の全体像が把握しにくいなどの難点も指摘された。4

3. 制作のねらい

この調査結果の知見から、これら異なった 2 つのタイプの映像を統合することによって、それぞれの長所と短所を補い合う、大震災の記憶をより効果的に継承するための映像コンテンツの制作が、次の目標として視野に入ることとなった。そして、これらの知見にもとづき、すでに制作された 2 種類の動画コンテンツを編集・統合し、 1 つの動画コンテンツが制作されることとなった。『記 憶を語り継ぐ阪神・淡路大震災』は、その試みの1つである。そのねらいは、人間である被災者の経験と記憶をとおして語る大震災の姿と、客観的なデータによって描かれる大震災の姿を統合し、それぞれがたがいに補い合うことによって、大震災を複眼的な視点で想起することを試みることである。

4. 手法と映像構成

被災者と言っても、その存在は多様である。「人間が語り継ぐ阪神・淡路大震災」では、男女 2名の被災経験者の震災についての語りが収録された。したがって、この『記憶を語り継ぐ阪神・ 淡路大震災』でも、被災者の語りに関しては、この 2 人の語りを中心に構成されている。

この 2人の男女のうち、男性は被災地である長田区で生まれ、そこで生活を営んできた人物であり、他方、女性は日系ペルー人で長田区に家族とともに移住し、就労していた人物である。

『記憶を語り継ぐ阪神・淡路大震災』では、さらに文化的背景の異なる人々、被差別地域で暮らす人々、心身に障がいをもつ人々、子ども、女性、 高齢者など、 8人の証言があらたに加えられた。これら証言映像の収録には、総合政策学部学生たちの熱心な協力があったことを明記しておきたい。

これらの証言を加えることで、被災者が多様な存在であり、大震災はそれぞれにとって異なった様相を示し、被害のあり方も復興への取り組みも異なっていることを想像、理解できるよう努めた。

ところで、「データで語り継ぐ阪神・淡路大震災」では、神戸新聞社、神戸市、政府、博物館、 研究機関、学会、大学などが公開している大震災に関する各種データをもとに、長田区に限らず、広く被災地全域に目を配り、表やグラフ、地図を用いて、客観的な表現を試みた。『記憶を語り継ぐ阪神・淡路大震災』でも、これらの情報を引き続き活用した。画像データの使用を許してくださった神戸新聞社には、心から感謝を申し上げたい。 さらに、公開されている映像資料、FMYY所蔵のビデオ映像、個人所蔵の写真・ビデオ映像を加え、また、あらたにドローンで空撮された映像を加えて、全体を構成した。そして、最終的に動画コンテンツ全体としての視聴時間は、約60分となった。

5. 制作体制・スタッフ

5-1. 研究

関西学院大学総合政策学部共同研究班:

山中速人、照本清峰、津田睦美、奈良雅美、金千秋

5-2. 出演

インタビュー出演:森﨑清登、大城ロクサナ

学生制作番組/証言インタビュー出演:為岡務、安本久美子、藤本幸二、觜本郁、角岡伸彦、

石倉泰三、吉田めぐみ、李玉順

5-3. 制作

インタビュー撮影:神吉良輔(ふとっちょの木) ドローン撮影:辻野賢登 ナレーション:森﨑清登、はまのかずみ 図像デザイン/作成:宗田宜士

 学生番組制作:

(関西学院大学総合政策学部津田睦美ゼミ)

 岡本貴登、近藤理菜、宗田凜花、中嶋一翔、早川葵、古橋玲也、三砂安純、山中碧生

(関西学院大学総合政策学部山中速人ゼミ)

江頭舞、岡田愛未、日下まりあ、小松将大、 白髪里佳、瀬戸山周、中越陽香、永沼美菜、 中城健太、辻野賢登、藤田広希、星円、 宮本隼輔、芳岡知昇、山崎聡一郎、吉山菜々子 

脚本・構成:山中速人 

制作・編集:金千秋(エフエムわいわい)

6. 使用データ・映像音響資料・文献等の出典

参考文献・データ:

・ 震災発『阪神・淡路大震災の記憶』(Web Page) ・ 神戸新聞NEXT「データでみる阪神・淡路大震災(Web Page)

・ 神戸市「震災資料室」(Web Page)

・ 神戸市消防局「阪神・淡路大震災」(Web Page) 

・ 内閣府「防災情報のページ」(Web Page)

・ 柏原士郎、森田孝夫、上野淳『阪神・淡路大震災における避難所の研究』大阪大学出版局、

1998年

・ 日本火災学会『1995年 兵庫県南部地震における火災に関する調査報告書』1996年

・ 兵庫県『阪神・淡路大震災の死者にかかる調査について』2005年12月22日記者発表資料

・ 舞田敏彦「災害での死者数は、なぜ女性の方が 多いのか『」ニューズウィーク日本版』2019年10月23日

・ 人と防災未来センター『資料室ニュース』30号、2006年11月15日

・ 都市防災研究所『阪神・淡路大地震における在日外国人被災状況調査』1995年

・ 外国人地震情報センター『阪神大震災と外国人「多文化共生社会」の現状と可能性』1996年 ・(社)兵庫部落解放研究所『記録 阪神・淡路大震災と被差別部落』解放出版社、1996年

・ 部落解放同盟中央本部・(社)部落解放研究所 『阪神・淡路大震災と被差別部落:被害の状況と復興への課題』1995年

・ 日本経済新聞「復興の街が問う未来 阪神大震災から25年」2020年 1 月17日(WebPage) 

写真:

神戸市 阪神・淡路大震災「1.17の記録」(Web Page)より 使用した写真コード(登場順)f196, f202, f208, b043, b046, a031, f005, f188, f179, g191, f126, g064

画像データ提供:神戸新聞社、神戸市、震災写真オープンデータ・ サイト・阪神・淡路大震災「 1 .17の記録」 映像データ提供:松崎太亮、チョン ミンラク、(特定非営利活動法人)エフエムわいわい 

BGM:魔王魂、株式会社VSQ


脚注

1 調査研究には、2019〜2020年度総合政策学部共同研究「阪神・淡路大震災の記憶継承に関する大震災後世代の意識調査」の認定をうけ補助金が交付された。2019年度の研究班は、山中速人(代表)、照本清峰、奈良雅美、金千秋(研究協力者)によって構成され、2020年度より津田睦美が参加した。

2 山中速人、照本清峰、奈良雅美、金千秋「阪神・淡路大震災の記憶継承に関する震災後世代の意識と態度〜調査報告(基礎編)『総合政策研 究/Journal of policy studies』61号、pp.47-69(2020-09-20) 山中速人、照本清峰、津田睦美、奈良雅美、金千秋「阪神・淡路大震災の記憶継承に関する震災後世代の意識と態度〜2019年度調査の分析」『総合政策研究/Journal of policy studies』64号、pp.73-94(2022-03-20)

3 2020年度関西学院大学共同研究公募研究A「阪神・淡路大震災の記憶継承にかかる震災後世代への意識調査と国際研究交流」の補助金の一部によって映像制作が行われ、エフエムわいわいによって配信された。

4 山中速人 , 照本清峰 , 津田睦美 , 奈良雅美 , 金千秋「阪神・淡路大震災の記憶継承のための実験番組の制作と震災後世代による番組評価 : 「人間が語り継ぐ阪神・淡路大震災」「データで語り継ぐ阪神・淡路大震災」に関する視聴反応調査報告」『総合政策研究/Journal of policy studies』65号、pp.1-59(2022-09-20)

2023年8月23日水曜日

誰がキャプテン・クックの首に鈴をつけるのか。

  出版予定のオセアニア文化に関する事典で、編集者から頼まれたいくつかの項目の1つに「ジェームズ・クック」があった。あの18世紀の世界周航、太平洋探検で有名なキャプテン・クックだ。最初、送られてきた編集者からのメールを読んで「なんで私なの?」というのが素朴な感想だった。キャプテン・クックといえば、欧米では、偉人に列する存在だ。もっと、適当な書き手がいるだろうに。

ジェームズ・クック

 ただ、クックの航海については、近年、彼に「発見」された太平洋の島々や沿岸地域の先住民たちから厳しい批判的評価が盛んに行われ、本来は彼の偉業を顕彰するために建てられた銅像が倒されたり、ペンキを掛けられたりするようになった。

 学術研究の世界でも、クックの航海に対して、従来の西洋中心主義的な視点が批判されるようになり、論争が巻き起こっている。その筆頭は、イギリスの旧植民地スリランカ出身の文化人類学者のガナナート・オベーセーカラが1992年に発表した『(邦題)キャプテン・クックの列聖』(中村忠男訳、みすず書房)だ。彼は、ハワイ人たちがクックを神と見違えたという従来の定説を西洋中心主義として批判し、クックらが先住民との接触に際して示した暴力性を暴いた。

 オベーセーカラの問題の著作が出た1992年の同じ年に、たまたまハワイ観光の歴史について書いた拙著の中で、クックの先住民に対する姿勢について、ずいぶん批判的に書いたことがあった。クックは、第三回の航海の途中、ハワイに立ち寄った際、住民と衝突し落命したのだが、住民と紛争になったとき、沖に泊めていたボートまで泳いで逃げたら助かったのに、なんと偉大な航海者であるクックは、泳げなかったのだ。そのことも、ちょっと揶揄した。この年になって思うと、若気の至りというべきだったろうか。

「クックの死」の図版

 その本の出版に際して、太平洋の先住民文化について多大な研究業績のある文化人類学者のMY先生に事前に原稿を読んでもらった。MY先生は、アメリカ政府奨学生としてハワイ大学で学んだ日本人留学生の先輩で、そのよしみで無理を聞いてもらった。ひょっとして、MY先生が事典の執筆者選考を担当していて、キャプテン・クックの項目が私に回ってきたのかも…とあれこれ想像してしまった。

 新しく出る事典だから、従来通りじゃ面白くない。そこで、クックの「偉業」を「批判的」に論じる作業、いわば「猫の首に鈴をつける」のを、曲がりなりにクック批判に先鞭をつけることになった私が担当することになったのかもしれない。若気の至りの後始末は、なんとも骨が折れる。

 


2023年8月14日月曜日

マウイ島山火事とラハイナ焼失〜貿易風とハワイ諸島の関係

 ハワイ諸島に暮らすと、つねに東北東の風が安定して吹いていることに気づきます。貿易風です。

図1 貿易風の流れとハワイ

貿易風とは、緯度30度付近にある亜熱帯高気圧帯から赤道に向かって吹く、ほぼ定常的な偏東風のことで、図1が示すように、北半球の北緯20度付近にあるハワイ諸島には、この貿易風が年間を通じて、つねに吹いています。(貿易風とハワイ諸島の歴史的関係については、拙著『ハワイ』(岩波新書)に書いたので読んでいただければうれしいです。)

この東北東(ここでは、簡単に東といいます)の風が、海中の火山活動によって生まれたハワイの島々の気候に大きな影響を与えています。図2が示すように、貿易風の風上にあたる島の東側斜面は湿潤に、風下にあたる島の西側は乾燥します。

図2
東側が湿潤で涼しく、西側が乾燥して高温という条件は、歴史的にハワイの産業や社会構造にも影響をおよぼしてきました。湿潤で涼しく、生活にとって好条件の東側には、裕福な住宅街などが発展し、暑くて乾燥している西側には、サトウキビ・プランテーションが開発され、そこで働く農業労働者や移民たち、先住民ハワイ人たちの居住地が形成されました。

この構造がはっきりと見える島は、カウアイ島です。図3の衛星写真が示すように、カウアイ島は1つの火山(カワイキニ山)を中心にもつほぼ円形の島で、貿易風の影響がはっきりと現れます。図4は、カウアイ島の降水量を示していますが、貿易風の風上(東)は湿潤で涼しく、風下(西側)は乾燥して高温とはっきりと分かれます。

図3 カウアイ島衛星写真

図4 カウアイ島降水量


湿潤で涼しい東側は、緑豊かですが、他方、高温で乾燥した西側は、赤茶けた大地にサトウキビ耕地が広がります。



つぎに、カウアイ島の民族別人口比率をこれに重ねてみましょう。図5は、カウアイ島の地域別の白人系住民比率を示しています。白人人口が、湿潤で涼しい島の東北部に偏っていることがわかります。


図5 カウアイ島白人住民の地域別比率

一方、図6は、地域別のアジア系住民比率を示しています。高温で乾燥した島の南西部に偏っていることがわかります。

図6 カウアイ島アジア系住民の地域別比率


19世紀以来、島の南西部に形成されたプランテーションでの労働を担ったアジア系移民とその子孫たちは、今でも島の南西部に集住しています。それに対し、歴史的に社会の上層を占めてきた白人層は、湿潤で涼しい島の東北部に集まっています。

もちろん、20世紀中盤以降、島の産業構造がプランテーション農業から観光業へと大きく変化したため、このような構造は、今日、崩れつつあります。しかし、それでも、貿易風が作り出した基本的な構造は根強く残っているのです。

さて、マウイ島をみてみましょう。図7は、マウイ島の衛星からの写真で、図8は、島の年間降水量(赤:少↔青:多)を示しています。これをみると、山の東側が湿潤で、山の西側が乾燥していることがわかります。ラハイナは、西マウイ島の中央にあるプウククイ山の西側に位置し、乾燥しているのです。
反対に、東マウイの中央にそびえるハレアカラ山の東側斜面は湿潤で熱帯植物が生い茂り、森林保全区に指定されています。


図7 マウイ島の衛星写真


図8 マウイ島の降水量


今回の森林火災の発生箇所をしめす図9をみれば、それらが山の西側に位置し、乾燥地帯であることが分かるでしょう。

図9 今回の火災発生箇所

ラハイナのハワイ語の意味は、が太陽を意味し、haināが残酷を意味します。「残酷な太陽」つまり、強烈な太陽がつねに大地を焦がしている土地だということです。
このような自然条件を抱えたラハイナの町が、地球温暖化の中で山火事の犠牲となりました。一人でも多くの命が助かることをせつに祈ります。

そして、19世紀に捕鯨基地として繁栄し、また、一時期、ハワイ王朝の首都でもあったラハイナの歴史的街並みが焼失したことは、本当にくやしくて残念です。しかし、第二次大戦で壊滅したヨーロッパの歴史的街並みが再建されたように、歴史あるラハイナの街が美しく再建されることを願ってやみません。




2023年8月6日日曜日

2023年8月6日 ヒロシマ原爆忌によせて

  1997年に平岡敬広島市長(当時)からいただいた思い出深い原爆ドームのタペストリー。このタペストリーは、原爆ドームが、1996年に世界遺産登録されたのを記念して作られたもの。それを平岡市長から直接いただいた。

 80年代、東西冷戦の最中、戦術核兵器の配備をめぐって、ドイツを中心に中部ヨーロッパで反核運動が広がった。ところが、ドイツ語の原爆資料がないことを知り、急いで、原爆資料のドイツ語訳を友人のオーストリア人留学生と手掛けることになった。
 それがきっかけとなり、自身の海外留学を機会に「被爆者が描いた原爆の絵」というスライド映像番組を外国語に翻訳する活動をはじめた。各国からやってきた留学生仲間にわずかな謝礼で翻訳をしてもらうのだ。
 その活動を知って、大阪の職業女性団体(BPW)が資金を提供してくださり、ヒロシマ資料を海外に知らせる会が発足、数年かけて12ヵ国語への翻訳を完成させた。翻訳されたスライド番組は各国に送られた。

1997年、今度は、そのスライド番組を東京経済大学コミュニケーション学部の学生ボランティアたちが、当時、まだ最新のメディアだったホームページに加工する作業(HTML版の制作)に取り組み、完成させたデータを女性団体といっしょに広島市平和資料館に寄贈した。

 写真は、市長や取材のテレビクルーが、当時、まだ珍しかったホームページ化された資料を閲覧しているところ。このホームページは、それから何年間も平和資料館のサイトで公開され、海外から多くの人々のアクセスを受けたが、素朴な作りのHPは、その後、ウエッブ技術の進化の中で時代的役割を終えた。

 この市民が描いた原爆の絵は、もとはNHK広島が被爆市民に呼びかけ、数多くの作品が寄せられたものだ。収集に尽力した広島NHKの元スタッフの家族の方が、外国語訳を届けたニュースを聴いて「夫の志を引き継いでくれてうれしい」と手紙をくださった。

 一つ一つの市民の活動はささやかだけれど、その志がリレーされることによって、着実に成果を作り出せる。そのことを実感する経験だった。

2023年3月8日水曜日

災害と戦争における「忘却と想起」〜記憶研究の視点から〜

 災害記憶の世代を超えた継承について調査研究を続けてきて思うのは、戦争の記憶継承との類似性である。辛い記憶を忘れて未来をみつめて復興をめざそうという「未来志向」か、過去の重荷を想起しつづけ現在の戒めにしようという「過去の保持」かの葛藤は、災害でも戦争でもよく似ている。

われわれの研究班が実施した震災後世代に対する調査でも、男性は忘却志向なのに対し、女性は辛い記憶の保持に積極的だという結果がでている。ただ、災害の記憶の想起については、政府も世論もメディアも一般論では前向きだ。しかし、いったん想起すべき記憶の内容に踏み込むと、防災に役立つ記憶は優先しても、犠牲者の悲惨なエピソードについては及び腰であるなど、単純にすべての記憶の継承に受容的ではない。

災害でもこのようであるから、戦争の記憶についてはなおさらだろう。たとえば、今、日韓で確執が続いている徴用工問題の経過をみると、忘れたい側と想起を続ける側との溝の深さを痛感せざるをえない。

記憶研究で著名なドイツの研究者、アライダ・アスマンは、論文「トラウマ的な過去と付き合うための4つのモデル」(アライダ・アスマン、安川晴基訳『想起の文化:忘却から対話へ』岩波書店、2019年に収録)の中で、両者を対立させるだけでは、問題の理解や解決にはならないと書いている。さらに、アスマンは、これまで人間がこの問題に対処してきたやり方には、4つのモデルがあったと指摘する。

1.対話的に忘れること。2.決して忘れないために想起すること。3.克服するために想起すること。4.対話的に想起すること。

そして、アスマンはこう付け加えている。
「忘れること(山中注:1の「対話的に忘れること」を選択)が真価を発揮するのは、とりわけ、対称的に暴力が行使されたあとか、あるいは、新たな同盟関係が築かれねばならない特別な政治的状況下だ。しかし、極度の暴力が振るわれた非対称的な関係が問題となっているときには忘れることは失敗する。」

彼女の議論に従えば、韓国にとって1の「対話的に忘れる」モデルの選択がまがりなりにも可能であるのは、朝鮮戦争で暴力を行使しあった南北間かもしれない。しかし、韓日のような植民地統治の被害者と加害者の間の非対称的な関係では失敗することになるだろう。

ところで、最近、日本では「対中脅威を前に日韓がともに備えるべきだ」と一部のメディアや政治家が主張しているが、これなどは、「同盟関係が築かれねばならない特別な政治的状況」に当たると考える人もいるかもしれない。実際、韓国の保守系政権も、同じ発想で「対話的に忘れる」モデルに傾きつつあるようにみえる。しかし、そんなことは可能だろうか?

アスマンはこうも書いている。「歴史のトラウマは、共通の未来を築くための基礎になりうる。この想起は、被害者にとっても加害者にとっても、彼らの集合的な自己像の不可欠の部分になっているので、…過去の保持のこの形式は、未来永劫続く」と。
被害者にとってアイデンティティの一部となっている記憶は、たとえ目先の共通利益があっても、忘却することは結局できないのではないだろうか。まして、過去のある時点で結ばれた条約を盾にして、「解決済み」だと主張しても、それが、トラウマとなった記憶を忘却させるわけではない。

ひるがえって、災害記憶の継承についても、それはいえるだろう。防災関係者が「防災に役立つ記憶の継承が必要」だといっても、なにが防災に役立つかは、人びと、とりわけ被災者の経験や立場で異なるだろう。まして、被災のトラウマを抱えて生きる被災者にとっては、役立つ記憶だけを継承するという姿勢それ自体が、新たな苦痛となるかもしれない。
そして、そのようなやり方は、結局失敗するように思えてならない。

2023年2月9日木曜日

トルコ・マルマラ地震の記憶を語り継ぐ努力は果たされたか?

 1999年に発災したトルコ・マルマラ地震の被災地で、人びとの間に地震の記憶がどう継承されているかを知りたいと思い、2018年に現地調査を行った。被災者たちの間で、地震の記憶は生々しく生きていた。しかし、地元自治体は、災害の記憶継承に努力しているようすはなかった。震源地の街は、きれいに修復され、痕跡はなく、震災を伝えるモニュメントもなかった。

震源地の街 ギョルジュク
しかし、私たちが尋ねると、出会った被災者たちの口からはほとばしるように震災の記憶が溢れ出した。むしろ被災者たちは、記憶を語りたがっていた。そして、震災の記憶を忘却しようとするかのような社会の動きを嘆き、このままでは、また同じような災害と被害が、繰り返されかねないと訴えた。

震源地での聞き取り
今回の2023年トルコ・シリア地震の被害の深刻さと被災者の辛苦を思う。そして、マルマラ地震の悲劇がまた繰り返されたことに忸怩たる思いを禁じえない。

マルマラ地震の被災地でのフィールドワークの報告に詳しく書いた。ご一読いただきたい。

https://kwansei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=27913&item_no=1&page_id=30&block_id=114

2022年10月19日水曜日

関西学院大学での最終講義を公開しました。


  大学をリタイアして半年が過ぎました。コロナ禍で多くの授業がオンラインとなり、最終講義もオンラインそれもオンデマンド講義番組での開催となりました。

振り返れば、コロナ禍のこの2年間、ほぼすべての講義をオンラインで実施しました。苦痛だった?いえいえ。実は、関学での20年間で、どちらかといえば楽しかった2年でした。文部省放送教育開発センター時代に、リモート学習の開発研究をしていたこともあり、オンデマンド講義番組、それも自分の科目の講義番組を作るのは、たいへん楽しかったのです。自前のスタジオも自宅に構築して、番組制作に励みました。コロナ禍は辛かったけれど、災い転じてなんとやらです。勢いに乗じて、他大学の講義番組の制作を手伝ったりしました。そして、「最終講義」もオンデマンド講義番組で行いました。

さて、最後の教授会で、来年度から全科目を教室対面式にもどすと告げられた。とっさに「ここで辞められてよかった」と思いました。面白い2年間を感謝しています。

山中速人「最終講義・映像フィールドワークの実践と展望」