2023年8月23日水曜日

誰がキャプテン・クックの首に鈴をつけるのか。

  出版予定のオセアニア文化に関する事典で、編集者から頼まれたいくつかの項目の1つに「ジェームズ・クック」があった。あの18世紀の世界周航、太平洋探検で有名なキャプテン・クックだ。最初、送られてきた編集者からのメールを読んで「なんで私なの?」というのが素朴な感想だった。キャプテン・クックといえば、欧米では、偉人に列する存在だ。もっと、適当な書き手がいるだろうに。

ジェームズ・クック

 ただ、クックの航海については、近年、彼に「発見」された太平洋の島々や沿岸地域の先住民たちから厳しい批判的評価が盛んに行われ、本来は彼の偉業を顕彰するために建てられた銅像が倒されたり、ペンキを掛けられたりするようになった。

 学術研究の世界でも、クックの航海に対して、従来の西洋中心主義的な視点が批判されるようになり、論争が巻き起こっている。その筆頭は、イギリスの旧植民地スリランカ出身の文化人類学者のガナナート・オベーセーカラが1992年に発表した『(邦題)キャプテン・クックの列聖』(中村忠男訳、みすず書房)だ。彼は、ハワイ人たちがクックを神と見違えたという従来の定説を西洋中心主義として批判し、クックらが先住民との接触に際して示した暴力性を暴いた。

 オベーセーカラの問題の著作が出た1992年の同じ年に、たまたまハワイ観光の歴史について書いた拙著の中で、クックの先住民に対する姿勢について、ずいぶん批判的に書いたことがあった。クックは、第三回の航海の途中、ハワイに立ち寄った際、住民と衝突し落命したのだが、住民と紛争になったとき、沖に泊めていたボートまで泳いで逃げたら助かったのに、なんと偉大な航海者であるクックは、泳げなかったのだ。そのことも、ちょっと揶揄した。この年になって思うと、若気の至りというべきだったろうか。

「クックの死」の図版

 その本の出版に際して、太平洋の先住民文化について多大な研究業績のある文化人類学者のMY先生に事前に原稿を読んでもらった。MY先生は、アメリカ政府奨学生としてハワイ大学で学んだ日本人留学生の先輩で、そのよしみで無理を聞いてもらった。ひょっとして、MY先生が事典の執筆者選考を担当していて、キャプテン・クックの項目が私に回ってきたのかも…とあれこれ想像してしまった。

 新しく出る事典だから、従来通りじゃ面白くない。そこで、クックの「偉業」を「批判的」に論じる作業、いわば「猫の首に鈴をつける」のを、曲がりなりにクック批判に先鞭をつけることになった私が担当することになったのかもしれない。若気の至りの後始末は、なんとも骨が折れる。

 


2023年8月14日月曜日

マウイ島山火事とラハイナ焼失〜貿易風とハワイ諸島の関係

 ハワイ諸島に暮らすと、つねに東北東の風が安定して吹いていることに気づきます。貿易風です。

図1 貿易風の流れとハワイ

貿易風とは、緯度30度付近にある亜熱帯高気圧帯から赤道に向かって吹く、ほぼ定常的な偏東風のことで、図1が示すように、北半球の北緯20度付近にあるハワイ諸島には、この貿易風が年間を通じて、つねに吹いています。(貿易風とハワイ諸島の歴史的関係については、拙著『ハワイ』(岩波新書)に書いたので読んでいただければうれしいです。)

この東北東(ここでは、簡単に東といいます)の風が、海中の火山活動によって生まれたハワイの島々の気候に大きな影響を与えています。図2が示すように、貿易風の風上にあたる島の東側斜面は湿潤に、風下にあたる島の西側は乾燥します。

図2
東側が湿潤で涼しく、西側が乾燥して高温という条件は、歴史的にハワイの産業や社会構造にも影響をおよぼしてきました。湿潤で涼しく、生活にとって好条件の東側には、裕福な住宅街などが発展し、暑くて乾燥している西側には、サトウキビ・プランテーションが開発され、そこで働く農業労働者や移民たち、先住民ハワイ人たちの居住地が形成されました。

この構造がはっきりと見える島は、カウアイ島です。図3の衛星写真が示すように、カウアイ島は1つの火山(カワイキニ山)を中心にもつほぼ円形の島で、貿易風の影響がはっきりと現れます。図4は、カウアイ島の降水量を示していますが、貿易風の風上(東)は湿潤で涼しく、風下(西側)は乾燥して高温とはっきりと分かれます。

図3 カウアイ島衛星写真

図4 カウアイ島降水量


湿潤で涼しい東側は、緑豊かですが、他方、高温で乾燥した西側は、赤茶けた大地にサトウキビ耕地が広がります。



つぎに、カウアイ島の民族別人口比率をこれに重ねてみましょう。図5は、カウアイ島の地域別の白人系住民比率を示しています。白人人口が、湿潤で涼しい島の東北部に偏っていることがわかります。


図5 カウアイ島白人住民の地域別比率

一方、図6は、地域別のアジア系住民比率を示しています。高温で乾燥した島の南西部に偏っていることがわかります。

図6 カウアイ島アジア系住民の地域別比率


19世紀以来、島の南西部に形成されたプランテーションでの労働を担ったアジア系移民とその子孫たちは、今でも島の南西部に集住しています。それに対し、歴史的に社会の上層を占めてきた白人層は、湿潤で涼しい島の東北部に集まっています。

もちろん、20世紀中盤以降、島の産業構造がプランテーション農業から観光業へと大きく変化したため、このような構造は、今日、崩れつつあります。しかし、それでも、貿易風が作り出した基本的な構造は根強く残っているのです。

さて、マウイ島をみてみましょう。図7は、マウイ島の衛星からの写真で、図8は、島の年間降水量(赤:少↔青:多)を示しています。これをみると、山の東側が湿潤で、山の西側が乾燥していることがわかります。ラハイナは、西マウイ島の中央にあるプウククイ山の西側に位置し、乾燥しているのです。
反対に、東マウイの中央にそびえるハレアカラ山の東側斜面は湿潤で熱帯植物が生い茂り、森林保全区に指定されています。


図7 マウイ島の衛星写真


図8 マウイ島の降水量


今回の森林火災の発生箇所をしめす図9をみれば、それらが山の西側に位置し、乾燥地帯であることが分かるでしょう。

図9 今回の火災発生箇所

ラハイナのハワイ語の意味は、が太陽を意味し、haināが残酷を意味します。「残酷な太陽」つまり、強烈な太陽がつねに大地を焦がしている土地だということです。
このような自然条件を抱えたラハイナの町が、地球温暖化の中で山火事の犠牲となりました。一人でも多くの命が助かることをせつに祈ります。

そして、19世紀に捕鯨基地として繁栄し、また、一時期、ハワイ王朝の首都でもあったラハイナの歴史的街並みが焼失したことは、本当にくやしくて残念です。しかし、第二次大戦で壊滅したヨーロッパの歴史的街並みが再建されたように、歴史あるラハイナの街が美しく再建されることを願ってやみません。




2023年8月6日日曜日

2023年8月6日 ヒロシマ原爆忌によせて

  1997年に平岡敬広島市長(当時)からいただいた思い出深い原爆ドームのタペストリー。このタペストリーは、原爆ドームが、1996年に世界遺産登録されたのを記念して作られたもの。それを平岡市長から直接いただいた。

 80年代、東西冷戦の最中、戦術核兵器の配備をめぐって、ドイツを中心に中部ヨーロッパで反核運動が広がった。ところが、ドイツ語の原爆資料がないことを知り、急いで、原爆資料のドイツ語訳を友人のオーストリア人留学生と手掛けることになった。
 それがきっかけとなり、自身の海外留学を機会に「被爆者が描いた原爆の絵」というスライド映像番組を外国語に翻訳する活動をはじめた。各国からやってきた留学生仲間にわずかな謝礼で翻訳をしてもらうのだ。
 その活動を知って、大阪の職業女性団体(BPW)が資金を提供してくださり、ヒロシマ資料を海外に知らせる会が発足、数年かけて12ヵ国語への翻訳を完成させた。翻訳されたスライド番組は各国に送られた。

1997年、今度は、そのスライド番組を東京経済大学コミュニケーション学部の学生ボランティアたちが、当時、まだ最新のメディアだったホームページに加工する作業(HTML版の制作)に取り組み、完成させたデータを女性団体といっしょに広島市平和資料館に寄贈した。

 写真は、市長や取材のテレビクルーが、当時、まだ珍しかったホームページ化された資料を閲覧しているところ。このホームページは、それから何年間も平和資料館のサイトで公開され、海外から多くの人々のアクセスを受けたが、素朴な作りのHPは、その後、ウエッブ技術の進化の中で時代的役割を終えた。

 この市民が描いた原爆の絵は、もとはNHK広島が被爆市民に呼びかけ、数多くの作品が寄せられたものだ。収集に尽力した広島NHKの元スタッフの家族の方が、外国語訳を届けたニュースを聴いて「夫の志を引き継いでくれてうれしい」と手紙をくださった。

 一つ一つの市民の活動はささやかだけれど、その志がリレーされることによって、着実に成果を作り出せる。そのことを実感する経験だった。

2023年3月8日水曜日

災害と戦争における「忘却と想起」〜記憶研究の視点から〜

 災害記憶の世代を超えた継承について調査研究を続けてきて思うのは、戦争の記憶継承との類似性である。辛い記憶を忘れて未来をみつめて復興をめざそうという「未来志向」か、過去の重荷を想起しつづけ現在の戒めにしようという「過去の保持」かの葛藤は、災害でも戦争でもよく似ている。

われわれの研究班が実施した震災後世代に対する調査でも、男性は忘却志向なのに対し、女性は辛い記憶の保持に積極的だという結果がでている。ただ、災害の記憶の想起については、政府も世論もメディアも一般論では前向きだ。しかし、いったん想起すべき記憶の内容に踏み込むと、防災に役立つ記憶は優先しても、犠牲者の悲惨なエピソードについては及び腰であるなど、単純にすべての記憶の継承に受容的ではない。

災害でもこのようであるから、戦争の記憶についてはなおさらだろう。たとえば、今、日韓で確執が続いている徴用工問題の経過をみると、忘れたい側と想起を続ける側との溝の深さを痛感せざるをえない。

記憶研究で著名なドイツの研究者、アライダ・アスマンは、論文「トラウマ的な過去と付き合うための4つのモデル」(アライダ・アスマン、安川晴基訳『想起の文化:忘却から対話へ』岩波書店、2019年に収録)の中で、両者を対立させるだけでは、問題の理解や解決にはならないと書いている。さらに、アスマンは、これまで人間がこの問題に対処してきたやり方には、4つのモデルがあったと指摘する。

1.対話的に忘れること。2.決して忘れないために想起すること。3.克服するために想起すること。4.対話的に想起すること。

そして、アスマンはこう付け加えている。
「忘れること(山中注:1の「対話的に忘れること」を選択)が真価を発揮するのは、とりわけ、対称的に暴力が行使されたあとか、あるいは、新たな同盟関係が築かれねばならない特別な政治的状況下だ。しかし、極度の暴力が振るわれた非対称的な関係が問題となっているときには忘れることは失敗する。」

彼女の議論に従えば、韓国にとって1の「対話的に忘れる」モデルの選択がまがりなりにも可能であるのは、朝鮮戦争で暴力を行使しあった南北間かもしれない。しかし、韓日のような植民地統治の被害者と加害者の間の非対称的な関係では失敗することになるだろう。

ところで、最近、日本では「対中脅威を前に日韓がともに備えるべきだ」と一部のメディアや政治家が主張しているが、これなどは、「同盟関係が築かれねばならない特別な政治的状況」に当たると考える人もいるかもしれない。実際、韓国の保守系政権も、同じ発想で「対話的に忘れる」モデルに傾きつつあるようにみえる。しかし、そんなことは可能だろうか?

アスマンはこうも書いている。「歴史のトラウマは、共通の未来を築くための基礎になりうる。この想起は、被害者にとっても加害者にとっても、彼らの集合的な自己像の不可欠の部分になっているので、…過去の保持のこの形式は、未来永劫続く」と。
被害者にとってアイデンティティの一部となっている記憶は、たとえ目先の共通利益があっても、忘却することは結局できないのではないだろうか。まして、過去のある時点で結ばれた条約を盾にして、「解決済み」だと主張しても、それが、トラウマとなった記憶を忘却させるわけではない。

ひるがえって、災害記憶の継承についても、それはいえるだろう。防災関係者が「防災に役立つ記憶の継承が必要」だといっても、なにが防災に役立つかは、人びと、とりわけ被災者の経験や立場で異なるだろう。まして、被災のトラウマを抱えて生きる被災者にとっては、役立つ記憶だけを継承するという姿勢それ自体が、新たな苦痛となるかもしれない。
そして、そのようなやり方は、結局失敗するように思えてならない。

2023年2月9日木曜日

トルコ・マルマラ地震の記憶を語り継ぐ努力は果たされたか?

 1999年に発災したトルコ・マルマラ地震の被災地で、人びとの間に地震の記憶がどう継承されているかを知りたいと思い、2018年に現地調査を行った。被災者たちの間で、地震の記憶は生々しく生きていた。しかし、地元自治体は、災害の記憶継承に努力しているようすはなかった。震源地の街は、きれいに修復され、痕跡はなく、震災を伝えるモニュメントもなかった。

震源地の街 ギョルジュク
しかし、私たちが尋ねると、出会った被災者たちの口からはほとばしるように震災の記憶が溢れ出した。むしろ被災者たちは、記憶を語りたがっていた。そして、震災の記憶を忘却しようとするかのような社会の動きを嘆き、このままでは、また同じような災害と被害が、繰り返されかねないと訴えた。

震源地での聞き取り
今回の2023年トルコ・シリア地震の被害の深刻さと被災者の辛苦を思う。そして、マルマラ地震の悲劇がまた繰り返されたことに忸怩たる思いを禁じえない。

マルマラ地震の被災地でのフィールドワークの報告に詳しく書いた。ご一読いただきたい。

https://kwansei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=27913&item_no=1&page_id=30&block_id=114